アルゴリズムと闘え
通勤電車の中、気づけば見渡す限りの人が首を垂れてスマートフォンを覗き込んでいます。レストランでは、家族4人がそれぞれにスマートフォンを見ながら食事をしています。 スマートフォンの普及当時には気持ち悪がられたこうした光景も、もはや日常の一部となり、得意になって批判するほどのものでもなくなりました。 しかし、珍しいものでなくなったからといって、それを当たり前に受け入れてよいとは言えません。私たちは、人間を取り巻くデジタル環境の現状に、問題があると考えています。

絶えず新しい通知を確認したい衝動に駆られたり、動画を見たりゲームをするのが止められなくなる「デジタル依存症」は、世界規模で、深刻な度合いで蔓延しています。 生まれながらにしてデジタル端末に触れて育つ世代の台頭にともなって、この傾向は今後さらに悪化していきます。ドラッグやアルコール、ギャンブルへの依存がひろく問題として議論されている様子と比べると、 世間のデジタル依存症に対する認識は低く、他の依存症と較べて問題として軽んじられているようにさえ見られます。

実際には、進行した依存症にあっては、酒やドラッグへの依存でもギャンブルやスマホへの依存でも、同じように重大な悪影響が生じます。その理由は、人が依存する仕組みは、物質であれ、行為であれ、同じだからです。よく知られているとおり、これらの物質や行いによって、脳内にはドパミンという「快楽物質」が放出されます。ドパミンによって中枢神経は興奮し、それで人は快感を感じます。繰り返し快感を得ようと酒やドラッグ、ギャンブル、またスマホを習慣的に利用していると、脳内では、継続的にこの快感を求めるように変化していきます。行動が快感を呼び起こし、その快感がさらなる行動を引き起こすことから、この状態はドパミンループと呼ばれます。問題は、このドパミンループを繰り返すうちに、中枢神経はより大きな快感を求めるようになり、摂取するドラッグやアルコールの量が増えたり、ギャンブルやスマホ視聴の時間が増えることです。

これらが医学的に「病気」と判断される境目は、社会生活において決定的な不都合があらわれるかどうかです。たとえば、繰り返しドラッグを摂取した場合には肉体的な健康が損なわれたり、ギャンブルにはまりこむことで経済的に破綻したりします。このように誰の目にも明らかな破綻をきたす依存症は、問題として認知されやすくなります。 ところが、目的もなくSNSを眺めたり、際限なくYouTubeを見たりするデジタル依存の場合には、決定的な破綻に至るまでの道程が長いという特徴があります。デジタル依存の特徴は、ただちに肉体の健康や金銭を奪う代わりに、じわじわと人生の時間を奪う点にあります。これは決して、デジタル依存の程度が軽いということを意味しません。むしろ体重が激減したり、歯が溶けたり、自己破産したりしてその問題点が表面に現れづらい分、悪質であるとさえ言えます。なぜなら脳の神経回路は同じように侵されて、ドパミンループを形成しているからです。その結果として人生の時間を、自分の意思とは関係なく浪費することになるのです。

この問題に向き合うためには、そもそもスマートフォンやパソコンでインターネットを利用するだけで、なぜ依存症になるのか、理解する必要があります。スマートフォンを見るくらいのことは、覚せい剤を注射することに比べれば、ずいぶん身近で当たり前にやってもよさそうなことです。それにもかかわらず、世界規模の深刻な依存症を引き起こしている原因は、「使いやすいもの、面白いものをつくりたい」という設計者たちの長年の努力と巧みな工夫の積み重ねです。 アナログとデジタルを問わず、ものづくりに従事してきた個々の設計者は、あくまで善良な職業上の使命感に基づいて、よりよい製品をつくるために工夫を凝らしてきました。ところが近年では、そうした姿勢があまりに大きな成果を生み出した結果、想定していなかった副作用として、依存症が問題となりはじめています。簡単に言えば、デジタルのサービスは、「便利すぎる」また「面白すぎる」状態になったというわけです。

「面白すぎる」サービスを前にして、私たちは無力ではありません。
ポテトチップスがおいしすぎるからといってお腹が膨れるまで食べてしまったとき、私たちは罪悪感を覚えます。これは、私たちが健康についての教育を受けてきたからです。ところがこの健康はあくまで、「肉体の健康」についてでした。おいしすぎるポテトチップスを自制するように、面白すぎるサービスを自制するためには、肉体の健康だけではなくて、「神経の健康」について学ぶ必要があります。すなわち、目や耳に入れる情報は脳に影響を及ぼしていて、これらは豊かな人生を生きるための自己管理の対象であるということです。

私たちは、いちテクノロジー企業として、情報技術や画面設計の知識を、ユーザを依存にせしめるためではなく、中毒性情報にあふれる世の中で「面白すぎる」情報と節度を持って付き合うために活用し、サービスを提供していきます。
なにかに依存する傾向は、人が、生来持っている働きです。いたずらに依存そのものを悪と断じることはせず、「何に依存するのか」について意識的に考え、自己決定する姿勢が重要です。